HOME ▶ 御殿守の歴史 ▶ 上杉鷹山公と御殿守

戦国の武将であり、武田信玄との川中島の合戦で有名な上杉謙信公は、一方では文学道義を重んずる米沢藩祖でもあります。 上杉の御湯御殿守の歴史は、謙信公の後、初代景勝公より家督を譲り受けました第二代藩主定勝公の時代にさかのぼります。

上杉鷹山 ▲ 上杉鷹山公

上杉家の別荘として、創業以来370年の伝統を守り続けてまいりました。 藩主の入湯ともなりますと、供揃えも数十人をくだらず、その大半が宿泊となります。 その滞在費もさることながら、六町に割り当てられる伝馬や、赤湯近在の宮内金山、萩等から出役させる戸張人足の確保も容易でなかったといいます。

赤湯温泉自体の開湯は、寛治七年(1093)奥州統一を夢見た源義家の弟義綱が、出羽の平師妙の乱の際、草刈八幡のお告げにより発見したことから始まります。 その当時、傷ついた兵士を湯に入れたところ、たちまち傷が治り、温泉は傷からの血で深紅に染まったところから、赤い湯、赤湯になったといわれております。

赤湯には湯治客のほか、出羽三山の登拝者、近村鉱山の鉱夫、馬商人達の宿泊も多かったという事で、古くから羽州街道の宿場町として栄えてまいりました。 そのような湯仙郷にあって、伊達藩、上杉藩の御殿湯として伝統を今に伝える当館「上杉の御湯・御殿守」は、まさしく郷土の歩みと共にあり、様々な出会いを大切にしてまいりました。

上杉鷹山公と赤湯御殿

米沢藩中興の名君上杉鷹山公はことのほか赤湯を愛され、画家に命じて丹泉八勝(赤湯八景)を描かせ、文に長じた者に風韻を賦せられたものが上杉神社に所蔵されています。 また、初代石岡要蔵が上杉家赤湯御殿の御殿守に命じられたのも寛政8年(1796)8月、鷹山公が46歳の時でございました。 これからも鷹山公が愛された慈しみの湯と御殿を大切に守り続けてまいりたいと思います。

上杉鷹山公と赤湯御殿

第9代米沢藩主。江戸時代の名君の一人。 幼名松三郎、元服して治憲(はるのり)、のち鷹山(ようざん)と号した。 日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生まれ、上杉重定の養嗣子となり、明和4年(1767)17歳で米沢藩主となる。

治憲襲封前の米沢藩政は動揺が激しく、宝暦年間(1751−64)、郡代の森平右衛門が藩政の実権を握ったが、新政半ばにして菁莪社中のクーデタによって暗殺され、治憲の藩主就任とともに、奉行竹俣当綱(まさつな)を中心とする藩政改革が開始された。

改革は長期にわたったが、第1期は明和・安永の改革で、治憲が直接藩主の座にあった時期である。 改革政策はまず大倹約令にはじまり、農村統制では副代官、廻村横目、郷村出役を設け、国産奨励として桑・コウゾ・漆の各100万本植立策を実施し、越後から縮織業を導入した。 縮織はのちの米沢織の始まりである。また江戸の折衷学派の泰斗細井平洲を招き興譲館を創設した。

改革は天明年間(1781−89)に入ると、大飢饉の影響もあって一時挫折し、執政竹俣当綱、小姓頭莅戸(のぞぎ)善政らは失脚し、治憲も天明5年(1785)2月,家督を治広に譲って隠退した。 ときに35歳。訓戒書として治広に与えた〈伝国の辞〉は有名。

治憲は隠殿餐霞館にあって、治広、斉定の後見役となりその後も政務を指導した。天明年間は改革が中断したが、やがて莅戸善政は中老職に登用され、第2期の寛政改革が始まる。 改革は善政の構想によって進められ、とくに上書箱の設置、代官制度の改革、財政再建16ヵ年計画、また広範な国産奨励策などの実施があげられる。

中でも養蚕業、織物業の発展が著しく、財政および農村復興の基盤となった。 人材の登用、古い慣行の刷新と現実的な政策の採用が、改革を成功させた大きな理由とみられる。

上杉の家督をついだとき、春日大明神に奉納した誓詞に、〈受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母〉という歌を書きつけた鷹山は、江戸時代中期の代表的な名君として、和歌山の徳川治貞、熊本の細川重賢らと並び称された。

その名はすでに江戸時代後期から高く、明治時代に内村鑑三がすぐれた日本人5人を選んでその事跡を世界に紹介しようとして著した《代表的日本人》にも、卓越した封建領主として書かれている。

鷹山が藩政改革に際して、率先して粗衣粗食に耐えたこと、師の細井平洲に対して終始門弟としての礼を守ったことなどの逸話は国定教科書に掲載され、鷹山は修身教育上の模範的な人物として広く知られた。