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結城豊太郎先生が逝去されて早くも六十星霜。当地赤湯を愛し、その発展に意を注がれ、私財を投じて民生・教育にお力添えをいただきました。その結城先生が、人生の伴侶として当館御殿守石岡家から妻を娶られた事は、私どもにとって大きな喜びでございました。結城先生から学びました事は数多く、どれも大切な教えであり、人生を豊かにする糧であると考えております。今後も、後生に残すべき財産として守り伝えてまいりたいと思います。

結城豊太郎 ▲ 結城豊太郎
自然と友とした雅人「臨雲」と号す

結城先生の第一の趣味は読書でした。 財政経済の専門領域はもちろん、専門外分野での博学は有名です。 また、書を克くし、古今の名筆を数多く所蔵愛好して豊かな境涯を味わっておられました。 そして第二の趣味が″登山″でした。結城先生ご自身は次のように語られております。 「登山の妙味は藪をかき分け、渓谷を越え、川を渡り岩壁を匍匐して、難行苦行しつつ前人未到の地を踏破することに男性的壮快さが沸いてくる。」 (結城先生の号である「臨雲」は、当館新館建物の名前に使わせていただきました。)

郷学「ふるさとの学」

郷学とはふるさとの学。 これは結城先生が赤湯の郷に築かれたこの在り方が、ひとつの典型であると思います。 ふるさとを思うが故に情熱を込めてやって行く事が大切なのです。 総て、ものには「本」があります。木で例えてみますと根が″本″であり花が″末″です。 してみると″本″とは、如何にも見栄えがしません。
ただし、この力によって枝葉が養われ、成長して花が出てくる。 これは職業でいうと、農が本、工が枝葉、商が花といえるでしょう。 そして地域的に見たとき、″本″は、農村ということになり、″末″が、都です。 花の都とはよく言ったものです。 ですから国の根本は地方にあり、そこに何か種子を蒔こうとしたのが、結城先生なのです。

結城 豊太郎先生について

結城 豊太郎(ゆうき とよたろう)
明治10年(1877)5月24日生 昭和26年(1951)8月1日没
日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁を歴任。現在の山形県南陽市赤湯出身。号は臨雲。

酒造業を営む結城家に生まれる。明治31年(1898)6月、石岡要蔵の長女・茂登と結婚。旧制山形中学を経て、明治32年(1899)7月には第二高等學校を卒業し、東京帝國大學へ進学。明治36年(1903)7月、同法科大学政治学科を卒業。

明治37年(1904)1月7日、日本銀行入行、本店検査局勤務。日銀ニューヨーク代理店監督役付、京都支店長、総裁秘書役、大阪支店長などを務う。大阪支店長になるや米騒動に遭遇、手形決済不能に陥った金融機関に特別融通を実施するなど、恐慌が関西一帯に蔓延することを未然に防止した。大正8年(1919)8月、井上準之助総裁の推薦で日本銀行理事に就任、大阪支店長兼務。

しかし、旧知で引き立て役であった安田善次郎の不慮の死をきっかけに、日銀を退職し大正10年(1921)11月28日に安田保善社の専務理事に就任、安田関係11銀行の大合同を実現させ、同年12月には安田銀行副頭取も兼ね、大正15年(1926)1月には、安田学園理事長にも就任。母校東大の安田講堂の創建にも尽力した。

昭和4年(1929)3月、欧米視察からの帰国後に安田を退社し、産業調査会を設立。昭和5年(1930)9月に日本興業銀行第6代総裁に就任、世界的不況と金融恐慌の影響による各産業不振の中、日本産業発展の基は中小企業の振興発展にあるとして、日本経済発展に必要な企業を重点的に選択し、思い切った救済融資を断行し、いわゆる興銀貸付の弾力的運営を実践して、数多くの事業会社を活況に導き、立ち直った産業界から「救世主」と仰がれた。また、不況克服の一環として、商工組合中央金庫創設に尽力し、昭和11年(1936)12月10日設立、初代理事長となる。開業に際しては、「信は万事の本と為す」という言葉を披露している。

翌昭和12年(1937)1月に日本商工会議所第5代会頭に就任し、2月2日には林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣兼企画庁総裁に就任する。だが林内閣はわずか4ヶ月で崩壊し、続く近衛文麿内閣でも蔵相留任を要請されたが断っている。大臣退任後5月31日には貴族院議員に勅選。同年7月27日から昭和19年(1944)3月18日まで病弱だった池田成彬のあとを受けて第15代日本銀行総裁を務めた。日華事変勃発後の国家統制色の強い社会情勢の中にあって、自らの発意により金融協議会を設置するなど金融界に自主的な力を残そうと試みたほか、昭和17年の旧日本銀行法の制定に当っても、政治の圧力に抗して金融の中立性確保のために大いに努力したことが広く知られている。

貴族院の廃止後、昭和23年(1948)4月に三重県津市結城神社の第20代宮主となっている。

また、郷里の赤湯の私邸を、実業公民学校の付属施設として生徒に開放するなど、人材の育成に非常に熱心であった。

結城豊太郎記念館は、昭和初頭にイギリスを視察した折、市民図書館が発達し、特に農村の人たちが余暇を利用して熱心に学ぶ姿に感銘し、帰国後郷里の人々のためこのような施設が是非とも必要と考え、自己所有の土地に、旧薩摩藩御隠居屋敷の表門とともに、自らの横浜新子安の書屋を移築し、万巻の書籍と所蔵品の一切をそえて昭和10年(1935)4月「臨雲文庫」を創設し、前年郷土後継の青少年養成を目ざして創設の「風也塾」ともども郷学振興の教育施設として発足したものが前身で、平成7年(1995)4月20日、南陽市に結城の業績を振り返る市立として「結城豊太郎記念館新本館」が開館された。