HOME ▶ 御殿守の歴史 ▶ 斎藤茂吉「出羽国びと」の生涯

ふるさとを愛し、ふるさとの人々と山河を愛し、父や母を愛し続けた歌人、斉藤茂吉先生は、明治15年5月14日、山形県南村山郡金瓶村(現上山市)に生まれました。 そして、昭和28年2月25日、心臓喘息で″異郷の地″東京に72歳の生涯を閉じるまで、数々の歌集、歌論集を発表。 アララギ派の歌人として不動の地位を築いたのです。

斎藤茂吉 ▲ 斎藤茂吉

明治38年茂吉24歳。この年は、茂吉先生の生涯を決めた年であるといって良いと思います。 1月に正岡子規の「竹の里歌」と出会い、作歌の目が開いたとのこと。 歌人としての出発です。6月に一高を卒業し、9月に東京帝国大学医科大学に入学。 精神科医としての出発です。

また、ほぼ同時期に養子の話も決まり、姓が守谷から斉藤になります。 この3つの出来事から、この年こそまさに、茂吉先生門出の年と考えるわけです。 そしてこの年はまた、日露戦争が終わり、日本が世界に乗り出した門出の年でもありました。

母なる山・蔵王

「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」これは、蔵王山頂に歌碑として建てられている歌です。 茂吉先生は14歳で上京し、晩年、昭和20年2月に戦争を避けて帰郷。 21年からしばらく、最上川のほとりの大石田に住みます。 したがいまして茂吉先生の文学は ″蔵王を父に、最上川を母に″といわれます。 しかし、蔵王のお釜(火口湖)を詠んだ、「死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁の色のみづ見るかな」という歌もあることから蔵王を母なる山とする気持ちもおありのようでした。

斎藤茂吉記念館

山形新幹線かみのやま温泉からバスで10分も行くと、生家の守谷家、金瓶小学校、疎開先の斉藤家、そして守谷家の菩提寺・宝泉寺近くに着きます。 その生家からほど近く、「みゆき公園」の中に、斉藤茂吉記念館がございます。 館内は、展示室、収蔵庫、休憩室などに分かれ、茂吉先生の自筆原稿38点、色紙、短冊50点、書簡210点、著書90点、絵、書10点、研究資料などが数多く所蔵されております。 また、アララギ派の歌人をはじめとして、同時代の代表的文人の書蹟も多く、その中で異色のものとして、元関脇出羽ヶ嶽に関する資料も保存されております。 昭和25年、脳出血でこの世を去った出羽ヶ嶽は、茂吉先生の養父斉藤紀一氏が面倒を見た力士なのです。

寄せ書き ▲ 当館にお越しの際寄せ書
(昭和22年5月19日)
 
逆白波のたつまでに

昭和21年1月、大石田に移ってまもなく、茂吉先生は3ヶ月におよぶ病臥の日々を送りました。 敗戦の深い悲しみ、病床での孤独感を救ったものは、まぎれもないみちのくの風土と、周囲の人びとのあたたかなまごころでした。 その豊かさと思いやりにつつまれて、茂吉先生の詩情は、いやがうえにも高まっていったのです。

茂吉先生との想い出
 

茂吉先生がたよってきた板垣家子夫さんは、塩や炭を商っており、私の実家の近所でした。茂吉先生の落ちつき先も二藤部兵衛門さんの離れと決まり、私どもとの近所づきあいが始まったのです。

茂吉先生は、当時、同じように東京から移り住んできた洋画家の金山平三先生と一緒に、二日と空けずに私の家へいらっしゃいました。
私の父は庄司精一郎といい、「やまに」という造り酒屋をしておりましたが、茂吉先生方がいらっしゃった時は、昼下がりから夕方すぎまで、いろいろと歓談しておりました
。 当時15~16歳の私を、茂吉先生は「お嬢さん」と呼び、いつも家の裏口から入ってきたのを覚えています。
そのいでたちはというと、ホームスパンを着て、バケツとたらばす(米俵の頭の部分)を持っており、バケツは山中でのはばかり用に、たらばすは座布団替わりというもので、若い私の目には、風采の上がらない印象で映ったものでした。
飄々とした中にも、敗戦の苦しみがあったからかも知れません。

茂吉先生は、うなぎとそばが大好物でした。 よく家でつくって差し上げたのですが、後の病床の折り、「やまににまた行きたいなあ」とおっしゃっていた事を後で知り、嬉しくもあたたかい想いをいたしました。 その時は、父が桜桃で見舞い、有志数人で綿入れの丹前をつくったりいたしましたが、茂吉先生におかれましては、大変喜んでいただけたようでした。

上杉の御湯御殿守 先代女将 石岡ヒロ

 

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